美瑛川の脇にある青い池は、十勝岳の火山泥流を防ぐための防災工事の際に偶然できた人造池。光の加減で青や緑に変わる水面は、立ち枯れたカラマツと組み合わさって幻想的な風景になります。思わず見惚れていると、「鏡のように主の栄光を映しつつ」(Ⅱコリント3:18)のみことばが心に浮かびました。
まことの信徒
ペテロの手紙第一 2章21節
私たちは、クリスチャン(信徒)であることを誇りに思っているだろうか。それとも恐れたり思い悩んだりしているのだろうか。信徒という言葉は他宗教でも使用するが、キリスト教の信徒とは何かを考えなくてはならない。平凡な生活をし、主キリストのための奉仕に関心がない人も見られる。そのような人は、キリストのしもべだという誇りを持たないのではないだろうか。
クリスチャン(信徒)とはどんな人だろうか。それは、キリストの教え(聖書)に聞き従い、キリストに仕えることを願って生活する人だ。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと……模範を残された」(Ⅰペテロ2:21)。
第一に、キリストに倣い十字架を負う信徒。十字架を負うとは、迫害や困難にあっても主と共に苦しみを担い、へりくだって主キリストに従い通すことだ。十字架を避け、世を愛し、快楽、自我、罪を愛するならキリストにふさわしくない。信徒の生活は空しいものとなる。神と人に喜ばれるのは、自分自身を惜しみなく献げ、主と共に生きる信徒である。
第二は、みことばにとどまる信徒(ヨハネ8:31-32)。キリストのことばを知識としてではなく、心に刻んで歩む人だ。みことばを飢え渇いて求め、素直に聞き従い、罪を犯さないために心に蓄えることが大切だ(エレミヤ15:16)。
本当の信徒の姿は、悪や汚れ、自我を捨て、みことばによってきよめられ、キリストに明け渡して歩む者だ。私たちも主のみこころにふさわしい生きた証人になろうではないか(Ⅰペテロ2:1-2、Ⅰテサロニケ5:23)。
(江城保雄師)