恵みの福音(2023年8,9月) 通巻661号より

本部洗礼槽でのバプテスマ
本部洗礼槽でのバプテスマ

 かつては、聖会などの際に川でのバプテスマが多かったのですが、教会本部の建物に設置された洗礼槽(浴槽?)でも行われるようになりました。梅﨑先生の写真から写りの良いものを選んだのですが、1965年頃の写真のようです。主の弟子として信仰を表明し、新しい人生のスタート。

イエス様の招き

マタイの福音書 11章28-30節

 「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。とても暖かく心が安らぐ有名なみことばです。若い頃の私はキリスト教に無関心で野心に満たされ、スポーツや仕事に一生懸命でした。一方で家業の農業を手伝うべきだと周囲の人から言われる度に心が苦しく、心身の限界を感じるとき、この聖句に幾度も励まされました。
 「疲れた人」「重荷を負っている人」とは、人生の苦難や苦悩を背負っている人というより、自分を神だと勘違いしている人の呼称です。つまり、イエスの言葉は心の癒やしというよりも真の礼拝への招きと理解すべきです。礼拝の中では神と人の境界線が明確になり、神から受けたものに感謝し満足して、一層の信頼を育むことができます。安息日(礼拝)を軽視する心は、「あなたも神のようになれる」との誘惑の声に惑わされているからではないでしょうか。
 また、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」(マタイ11:29)と約束されました。イエスは父なる神とくびきを共にしておられ、柔和とへりくだりがありました。私たちがイエスのくびきを負うとは、この柔和さとへりくだりを持つことと言えます。現代はインターネット社会で、各自が携帯電話を手にして単独で行動しようとします。しかし、私たちを造られた神は、神と人、人と人との交わりを促しています。この交わりは神からの恵みと愛を深め平安に満たされます。
 自分の生活の中にまず神の招きを受け入れましょう。そして日々の祝福を祈り求めようではありませんか。

(岡﨑新一師)