エルサレムの東、死海の西岸に広がる段丘と砂漠は「ユダの荒野」と呼ばれています。エルサレムに近いために、ダビデはサウルに追われたとき、ここに逃げ込んで難を逃れました(Ⅰサムエル23:14)。写真は、ユダヤの要塞ユダの砂漠にある「マサダ」から撮影したものです。砂漠の向こうに死海が見えます。
空の鳥を見なさい――天の父の子として生きる――
マタイの福音書 6章25-27節
コロナ禍によって会社の倒産や飲食店の閉店が増えています。これに伴い、将来の生活不安を抱えている人が少なくありません。しかし、イエスは「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます」と言われました。
鳥はいつも忙しく飛び回っていますが、富を追求する人間のように物を蓄えようとはしません。それでも、創造主である神は鳥を養っておられるのです。「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」とイエスは語られました。これは私たちのための大きな励ましのみことばです。それなのに、なぜ私たちは将来の生活のために毎日心配しているのでしょうか。
さらに、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」とも語られています。「心配」は、天の父である神を信頼しないところから生まれてきます。イエスは心配している人に「信仰の薄い人たちよ」(30)と叱責され、「心配しなくてよい」と言われました。神を信頼している者には、神がすべてのことを配慮してくださっているからです。
私たちは、何一つ持たずに裸で生まれ、死ぬ時も何も持たずに死んでいきます。人間は物欲に振り回されるという弱さを持っています。しかし、神は人間のいのちのための必要を全て備えられていますから、「衣食があれば、それで満足すべきです」(Ⅰテモテ6:8)というみことばも忘れてはなりません。
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」とあります。私たちをいつも見守ってくださる天の父を信頼し、一日一日を精一杯生きることこそ、私たちのすべての必要をご存じである天の父の前に生きることなのです。
(橋本覚師)