恵みの福音(2022年10月) 通巻651号より

本部の鶏舎
本部の鶏舎

 1962年8月、鶏小屋とケージ、そして60羽の鶏が近隣の牧師から寄附され、「ミッショナリ・エッグ・養鶏場」と名づけられました。
 1965年の「恵みの福音」には、鶏卵が教会近くにできた団地へ毎日出荷するかたわら東京の信者にも販売していること、夫婦の働き人を求めていることが載っています。

事を隠すのは神の誉れ

箴言 25章2-3節

 私たちは、いろいろな出来事に遭遇すると、どうしてこんなことになったのか、その理由がわからないことがしばしばあります。順境の時にはそれほど感じませんが、不運や不幸な出来事が続く逆境の時には、余計にその思いを強くします。
 「今あなたにわからないが、あとでわかるようになるだろう」(ヨハネ13:7)と主が語られたことを思い出します。今わからないけれど、後にこういう目的のためにあのような痛みと損失が与えられたのかとわかるときが来るのです。「事を隠すのは神の誉れ」であるとは、主権者である神のみがご存じで、人間には知り得ない事柄が数多くあるということを意味します。全知全能の神のみこころを十分に知ることや見極めることができないのは当然のことなのです。それは子どもが親の心を十分に知ることができないのと同じです(申命記29:29、ヨブ記11:7-10)。

 H・ティーリケ(1908-1986年)の本の中に「なぜと聞くな、何のためにと聞け」というのがあります。なぜこのような苦しみが与えられるのか聞いてはならない。それは人間が神のみこころを見極めようとするわけだから不遜の限りである。「何のためにと聞け」とは、どういうことのために苦しみが与えられたのだろうかということだけ聞け、ということです。そして「事を探るのは王の誉れ」とは、いっさいの事柄の原因や問題を探ってそのことから正しい政治をしていくのは王の誉れ(務め)だと教えています。
 ただ私たちはイエス・キリストの十字架を通して、すべてのことが神によって支配されて、しかも神の愛のご計画のうちに行われていることを知り得ることが許されているのです。日々主のみことばにより、どんな状況の中にあっても主によって生かされていることを感謝しようではありませんか。

(竹内つづみ師)