カマボコ会堂が出来たとき、教会前の県道は砂利道でしたが車は多く、バスも走っていました。最寄りのバス停は、左右どちらも約500mで、雨の日や乾いた砂埃の日は危険。東武バスに依頼して、バス停「教会前」が設置されました。
ろうあ者が運転免許を取得できるのは12年後の1973年。まだ先の話です。
キリストがあがめられる
ピリピ人への手紙 1章20-21節
キリストを宣べ伝える働きの中で捕らえられ、獄中にあったパウロは(使徒28:16)、裁判の結果次第で、牢獄から解放され自由になる可能性もありましたが、死刑の可能性もありました。しかし、どのような判決が出ようとも、その生き方の基本にあるのは、「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます」(ローマ14:8)というあり方でした。
パウロが願っていることは、「どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」(1:20)だというのです。「あがめる」と訳された言葉は、「大きくする」という意味です。人は心の奥に自分を大きく見せたいという欲求を持っています。しかし、パウロは、自分を大きく見せるのではなく、「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」と告白し、神の恵みをほめたたえています(Ⅰコリント15:9-10)。
パウロの時代にも、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える人もいれば、党派心から宣べ伝える人もいました。しかし、あがなわれた者は、すべて主に明け渡して、キリストのすばらしさが人々に伝えられ、あがめられることを心から求めるべきです。キリストをあかしするとは、自分の大きさを人に知らせることではなく、キリストの大きさを人々に知らせることです。それがしもべのあり方です。さらに、「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6:20)と勧められています。私たちも、日々の歩みの中でキリストが大きくなり、生きるにしても死ぬにしてもキリストのすばらしさが現されるように求め続けましょう。
(江城保雄師)