水は人間の生存に無くてはならないものです。ヘロデ大王は地中海の玄関口であるカイサリアに、カルメル山麓の水源から水を引いて来て、飲料水と灌漑用に用いました。その長さは10キロメートルにもわたります。このアーチ型の導水橋の遺跡は、その時代に造られたものです。
一緒に踏みとどまってくれた人
ルカの福音書 22章8節
あの英雄ナポレオンは、セントヘレナ島に島流しにされ、自らの生涯を顧みたとき、「私は力の上に帝国を築こうとしたが失敗した。しかしイエス・キリストは十字架の上で殺されたが、愛の上に王国を打ち立てられた。そして今なお、彼のために命を投げ出す人は絶えない」と語ったといわれます。
人は盛んな時には多くの人が寄り添うものですが、試練の中で逆境に立たされている時には、多くの人がその人から離れて行くものです。使徒パウロは晩年、「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました」「私の最初の弁明の際、だれも私を支持してくれず、みな私を見捨ててしまいました」(Ⅱテモテ4:10,16)と嘆いています。
そのような試練の真っ只中で、主イエスは十字架を前にし、愛する弟子たちに次のように語られました。「あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです」(ルカ22:28)。なんとねぎらいに満ちたおことばでしょうか。彼らは一時的には主イエスを見捨てても、やがて主イエスのために命を投げ出す人に変えられて行きます。
教会生活の中でも、愛する人と一緒に生きる生活の中でも、困難が続くと、それを投げ出して、まったく別な、楽な環境に身を置きたくなるものです。しかし、そのような時にこそ一緒に踏みとどまることが求められているのです。
ピリピの教会は、「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たち」(ピリピ1:7)と称賛されています。また弟子のテモテは、パウロの晩年までパウロと困難を共有し続けました。そして、主イエスの弟子たちは、命を投げ出して主イエスに従い通しました。私たちも主イエスに従い、「試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たち」にされたいものです。
(岩松康宣師)