「ベエル・シェバ」は、アブラハムがアビメレクと誓いを交わした地で、「誓いの井戸」「七つの井戸」という意味があります。南に下るとネゲブ砂漠が広がり、この地においての水は貴重なものです。写真はその七つの井戸の一つで、井戸の入り口にはタマリスクが今でも植えられています。(創世記21:33)
膝をかがめて神に祈る
エペソ人への手紙 3章14-21節
主イエスによって救われた者たちは「神の家族」(エペソ2:19)とされていますが、パウロは獄中で、天と地にあるすべての「家族」という呼び名の元である偉大な御父に、服従の姿勢でもある「膝をかがめて」祈ります(ローマ14:11)。
第1の祈りは、聖霊が私たちの内なる人を強めてくださるように(16節)。第2の祈りは、信仰によって私たちの心のうちにキリストを住まわせてくださるように(17節)。第3の祈りは、「愛」の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたイエス様の愛を知るように(18-19節)。第4の祈りは、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされるように、祈るのです。パウロは牢獄の中で祈りながら、神の豊かな恵みと驚くべきキリストの愛を覚え、讃美しながら礼拝をささげたのです。
主イエス様は、ゲツセマネの園(マルコ14:32)で座って祈られました。パウロは牢獄の中で、熱心な執り成しの祈りを膝をかがめて祈りました。心の思いや熱心さは、祈りの姿勢にも表れてくることがわかります。私たちは、右手と左手を合わせて目を閉じ、座って祈ります。また、立っている時は、手話の身振りで、祈っています。祈りの声をすべて聞かれる神は、私たちの手の身振りや祈りの姿勢を見ていてくださるのです。「手話」は、手による言葉です。手の身振りは、耳で聞く言葉ではなく、目で見て聞く言葉です。ですから、私たちの手話の祈りをご覧になっておられる主イエス様は、私たちの祈りを聞いておられるのです。イエス様は、手話を用いませんでしたが、全知全能の神ですから(ルカ1:37)、手話による私たちの祈りのすべてを聞いてくださるのです。聖霊は私たちの手話での祈りを偉大な御父にとりなしてくださるのです(ローマ8:27)。アーメン。
(渡部清志師)